ご本尊と宝物/浄土宗西山深草派 総本山 誓願寺
ご本尊と宝物
誓願寺のご本尊は阿弥陀如来です。
天智天皇は常に仏の心を求められ、ある夜の霊夢(神仏のお告げ)により、当時仏師として名を馳せていた賢問子(けんもんし)・芥子国(けしこく)父子に丈六(一丈六尺=4.85メートル)の阿弥陀如来座像の造立を命じました。 二人は別々の部屋で仏の半身を彫っていたのですが、合体すると寸分違わず合致して見事な仏像ができあがったと伝えられています。 ご本尊の阿弥陀如来の完成とともに仏堂が建立され、天智天皇6年(667)に七堂伽藍が完成、「誓願寺」と名づけられました。
ご本尊を父子が制作していたとき、夜になると大勢の人のオノやノミを使う音が聞こえるので、訝しんだ人が部屋の中を覗いて見ると、驚く事に賢問子が地蔵菩薩、芥子国が観音菩薩になり、闇の中で光を放ちながら彫っていたそうです。
これらは春日大明神の本地(本来のお姿)であることから、ご本尊は春日大明神が造られたと崇め奉られました。
ところがこの阿弥陀如来像は度重なる火災で焼失してしまい、現在誓願寺本堂に御本尊として安置されています阿弥陀如来像は、もとは石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう:京都府八幡市)に八幡神の御本地仏として安置されていた阿弥陀如来座像で、神仏分離が行われていた明治2年、誓願寺に移安されてまいりました。
現在のこの阿弥陀如来座像は木造、寄木造布貼の丈六の座像で平安時代後期の定朝様で鎌倉時代から南北朝時代の頃の作と見られています。
松の丸殿画像
江戸時代初期 誓願寺は天正19年(1591)、秀吉の命により現在の地に移転し、慶長2年(1597)、松の丸殿(京極竜子)の援助によって伽藍の再興が完了しました。
神殿風の建物の中央に片膝を立て、右手に数珠を持った法体姿の松の丸殿が描かれ、女性美を表現するのに、本図ではごくごく柔らかい描線が用いられ、背景の豪奢さとは対照的な印象で、 上品でふくよかな美貌の持ち主で、色白の女性であったことがうかがわれます。 秀吉没後、誓願寺に閑居し、その菩提を弔う姿が偲ばれます。
毘沙門天立像(国指定重要文化財)
「多聞天」とも呼び、四天王の一人で北方を司る仏法の守護神です。
「誓願寺縁起」によりますと、平安時代に西国に名を馳せた盗賊が、捕まって斬られようとした時、かつて誓願寺ご本尊を信仰していた功徳により、刀が折れて助かり、その後、その盗賊は改心出家して常慶上人となり、一刀三礼して毘沙門天を彫刻して誓願寺に安置したと伝えられています。
その他の主な宝物
- 誓願寺絵巻 (三幅:重要文化財)
- 地蔵十王図 (十一幅:京都府有形文化財)
- 豊臣秀吉画像 (桃山時代)
その他仏画や祖師像、宸翰(しんかん:天皇ご自筆のお手紙)や綸旨(りんじ:天皇のみことのり)などを含む古文書を多数保存しております。 (いずれも常設公開は致しておりません。)