誓願寺あれこれ/浄土宗西山深草派 総本山 誓願寺


 


 

 

誓願寺あれこれ


 

迷子のみちしるべ

 

迷子のみちしるべ 山門の外、北側にある石柱です。正面に「迷子みちしるべ」、右側に「教しゆる方」、左側に「さがす方」と彫ってあり、その当時、落し物、迷子などの時、落した人は捜す方へ、拾った人は教える方へ、この石に紙に書いて張り出しました。 まだ警察のなかった江戸末期から明治中期、迷子が深刻な社会問題となり各地の社寺や盛り場に建てられたそうです。 月下氷人(仲人)役の石ということから、別名「奇縁氷人石」とも呼ばれます。

 

「賢問子行状記(宝暦十二年刊)」によれば、後深草院に仕える武士が、貧苦の中に病み、ただ一人の父親への孝養を頼み世を去りました。残った妻は、幼児の道づれは困難なので、しかたなく子を捨て父に孝養をつくさんと決意、仁和寺街道に一本の卒塔婆を建て、「子を捨てる形見の卒塔婆いかばかり、さらではいかに 親を助けん。」と書き、その横に子を捨てました。後に子は比叡山の大徳に拾われ、学匠となりましたが、父母に会いたい気持ちに耐えがたく、26歳のとき都に下り、方々を巡り歩いた末、誓願寺にたどり着き、「賢問子」、「芥子国」のいわれを聞き、仏縁を頼み昔の卒塔婆の歌を書きかえて、「子を捨てる形見の 卒塔婆いかばかり、さらではいかに親をたづねん。」としるし、自ら本堂の前に立ち施行しました。果たして年来尋ねていた母に再会することができ、ひたすら母子共に誓願寺・阿弥陀如来の恵みの広大さに感謝したということです。

 

現存の石柱は、明治15年(1882)9月に建立されたものです。


 

 

 

墓地の史跡 六地蔵石幢(ろくじぞうせきどう)

 

墓地の史跡 六地蔵石幢 誓願寺墓地の六地蔵石幢は、室町初期、永享11年(1439)の造立で、誓願寺墓地最古の石仏です。

 

幢身六面体で高さ136センチ、その上部各面に舟形光背を彫り込み、蓮華座に立つ像高36センチの地蔵を浮き彫りに彫刻され、幢身部上部に納経のための穴が開いて笠石を載せたと考えられています。

 

石材は兵庫県高砂市で産出される宝殿石(狭義の竜山石)で、京都府内では本作と、城陽市寺田の石棺仏の二点しか確認されていません。願文に「一結衆并無縁六親\右意趣者為 眷属乃至法界平等利益故也\永享十一年十一月二十四日 敬白」とあり、六地蔵として年代の確実な古例であって大変貴重なものとされ、京都の墓碑実地調査として権威ある「京都名家墳墓録」には、「京都古碑中の一に数ふべきものなり」と高く評価されています。


 

 

 

誓願寺墓地に眠る人々

 


小笠原 監物 忠重

徳川家康の第四子・松平忠吉(1580~1607 まつだいらただよし)の家臣で、亡き主君の後を慕って追い腹を切った。

 


山脇 東洋 (1705~1762) 夫妻の墓

 

江戸時代中期の医師。宝暦4年(1754)日本で最初の観蔵(人体解剖)を行い、解剖記録『蔵志』を公刊。観蔵から一ヶ月後、解剖した屈嘉(くつか)(利剣夢覚信士)の慰霊祭が誓願寺で行われ、山脇社中の行った解屍者の供養碑が建立された。その供養碑は平成6年9月に再建され旧供養碑は修復、保存処理が行われ京都大学総合博物館に寄贈。

 


服部 中庸 (1757~1824/はっとり なかつね)

 

江戸時代後期の国学者。29歳で本居宣長に入門。宣長の天文暦学への関心に影響を受け、天明8年(1788)『天地初発考』を著し、宣長の細かな補正を得て改稿し、寛政3年(1791)『三大考』を脱稿。中庸は妻の死や自らの病気のため文化5年(1808)与力を辞任し剃髪、翌年京都へ移住、同9年出家し水月庵茂翁、また箕田水月と称した。文政6年(1823)上洛した平田篤胤(1776~1843/ひらた あつたね)と対面し、中庸は篤胤に古道論追究の後継者を見出した。篤胤の主著『霊之真柱』(たまのみはしら)は『三大考』の存在なくしては成立しなかった。

 


お半・長右衛門

 

宝暦11年(1761)4月12日、帯屋の当主長右衛門(45歳)と信濃屋の娘お半(13歳)が桂川で水死した。事件は、殺人・事故死と諸説あるが、菅専助は心中ものの浄瑠璃として脚色、『桂川連理柵』(かつらがわれんりのしがらみ)として安永5年(1776)に初演された。翌年歌舞伎で上演。戒名は「義光浄意信士」(長右衛門)「俊妙照英信女」(お半)

 


穂井田 忠友 (1791~1847/ほいだ ただとも)

 

江戸時代後期の考古・古典学者。平田篤胤に入門し国学を学ぶ。天保8年(1833)から7年にかけての正倉院宝庫修理の際、器物・文書の調査を許され、『正倉院文書』正集四十五巻の整理に従事し、奈良時代の貴重な資料を初めて世に紹介した。著述に銭貨を研究した『中外銭史』、古代の印章の蒐集『埋麝発香』(まいじゃはっこう)、奈良古寺の遺物を研究した『観古雑帖』等がある。

 


橋本 経子 遺髪墓 (1826~1865)

 

橋本実久の娘。仁孝天皇の典侍。皇女・和宮親子内親王の生母。弘化3年(1846)、和宮が誕生する前に仁孝天皇が崩御されたため、剃髪し観行院と号した。慶応元年(1865)8月14日、江戸城にて死去。享年40歳。遺体は増上寺の徳川家墓所に埋葬された。

 


前田 利家 三女、摩阿(まあ)の墓

 

加賀藩祖前田利家三女で、豊臣秀吉の側室となって加賀殿と呼ばれ、側室を辞した後、万里小路充房に嫁した。(1605年没)

 


 

他、江戸時代初期、当寺移転中興第五十三世教山善誉上人以来の歴代上人の墓、江戸初期の天皇・霊元天皇皇子・受楽光院、江戸中期の天皇・中御門天皇皇女・清浄法院の墓、園家・橋本家・油小路家・勧修寺家等、公家の墓があります。


 

 

 


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